「普通ってなんだろう?」障害を個性に、ワクワクを作品に。【まちつくインタビューvol.19 飯山太陽さん】
栃木県真岡市で、まちづくりに取り組む方々の想いを伺うインタビュー!今回は、絵や立体などさまざまな手法で表現するアーティスト、飯山太陽さんにお話をお聞きしました。小学生の時に識字や短期記憶が苦手な障害があることがわかったという飯山さん。好きなことを仕事にするまでの道のりや、作品に込める思いを伺います。
イメージを細部まで、現実の作品に
―飯山さんのご活動について教えてください。
絵や立体作品、インスタレーションなどを通した表現をしています。テーマが明確にあるわけではなく、日常のふとした時に浮かぶイメージ、その時描きたいもの、ワクワクするものを描いています。浮かんでくるイメージは構図まで細かく決まっていて、作品にするのに1年くらいかかることもあります。色鉛筆やアクリルを使うことが多いですが、イメージに合わない場合は画材探しからすることも。今は長い大きな布にペンで描いていますが、ペンが滲まないような生地を布屋さんで探してきました。
絵に行き詰まった時は、自分で音楽をつくることもあります。そういった活動をしながら、真岡市にある就労継続支援B型事業所の「そらまめ食堂」で働いています。
―制作のモチベーションや、作品の特徴は?
作品の完成を自分自身が楽しみにしています。具体的なイメージが浮かんでも、まだ現実化していないので、早く完成を見たいなと思うんです。イメージを形にしていく作業が楽しいですね。できた時には「やった」となります。
作品の特徴は、絵の中に突拍子もない単語、文字が書いてあることです。私は識字と短期記憶が苦手な障害を持っています。文字を書くことが苦手だからなのか、漢字の形がかっこよく感じて、惹かれるものがあるんです。「読めないけれど、かっこいいから入れちゃおう」と作品の中に登場させています。一方で、スマホで意味を調べて、あえて意味のついている単語を入れることも。その辺は統一せず、その時の気分ですね。
一つの作品に、人それぞれの感じ方
―なぜ、絵を描くようになったのですか?
兄弟が2人いるのですが、歳が離れていてひとり遊びすることが多く、絵や細かい迷路を描いたりものづくりをしたりして遊んでいました。小、中、高とずっと娯楽として絵を描いていて、それを今も続けている感覚です。
―どんな風にアーティストとして活動するようになったのですか?
小さい頃は深く考えていませんでしたが、「ずっと絵を描いているんだろうな」と漠然と思っていました。高校生の時に担任の先生がサッカーをやっていて、夏休みの課題としてパラリンアートサッカーコンテストに応募しないかと勧められたのです。習字などの課題は億劫でしたが、その分絵には力を入れようかと(笑)。それで描こうと思いました。
テーマは「未来のサッカースタジアム」。近未来では「サッカーが一番」という価値観の世界で、上空に巨大なスタジアムが造られているというストーリーを考えました。巨大さがわかるよう、遠近感の対比がはっきりするよう表現しました。その作品がグランプリを受賞したのです。自分の中で大きな出来事でしたし、とても嬉しかったです。
徐々に自分の絵をいろいろな人に見せたいなと思うようになりました。小さい頃から自分の作品が好きだったので、描いた絵は全部とってありました。作品にはそれぞれ、自分なりのストーリーがあります。それを人が見た時どう感じるのか、全然違うイメージを持っていたら面白いし、逆に一緒でも面白いなと思いました。絵を見て何か感じてくれたら、自分のモチベーションになるなと思ったのです。
高校を卒業したら、どこかで個展を開きたいと考えました。当時は益子駅の近くに住んでいたので、近所の「ヒジノワcafe&space」という場所でやりたいと思い、「こういう絵を描いているんですけど」と作品を持って訪ねました。すると快く話を聞いてくれて、テンポ良く開催が決まりました。チラシは全部自分で作って、ネットプリントで注文。どうやって作るのか調べて作業するのも、益子町のお店を回ってできたチラシを配るのも楽しかったです。
当日は、想像よりもたくさんの人が来てくださいました。知人が多いだろうと思っていたら、全然知らない方も足を運んでくれて。これまで、自分の絵について直接コメントを聞く機会はなかったので、いろいろな考えがあって不思議な感覚でした。全然違うことを感じている人も、感じることが私と一致している人もいて、どちらも何かが通じた感じがして嬉しかったです。
この初めての個展をきっかけにいろいろな方とつながるようになり、ギャラリーを運営されている方からお声掛けいただき、2回目の個展を開催。さまざまな個展を開かせていただきましたが、特に茂木町でやった個展は広い会場で、これまでに描いたほとんど全ての作品を飾れました。大きい作品も作れましたし、空間を自由に使って展示できたので、とても印象的でした。
障害への考え方への違和感
―高校卒業後すぐに個展を開いていたんですね。障害はいつ頃わかったのですか。
小学4年生ごろです。家族に診断を勧められてわかりました。自分的にはそんなに「えっ?」ともならず、あまり気にしていませんでした。というのも、障害が分かったからといって、昨日と今日の自分は変わらないからです。大したことではないどころか、何も変わらないと思っていたし、当たり前のこととして受け止めました。
私は識字と短期記憶が苦手で、長い期間一緒にいると「おや?」と感じるところがあると思います。ただ、一見してわかりにくいところもあるので、生きにくさは感じてきました。
小さい頃は特に大変なことはありませんでしたが、小学校高学年くらいから宿題や授業に追いつけなくなってしまい、徐々に不便なことが増えました。特に大変だったのは中学校の時です。中学から特別支援学級に入ったので、みんなとは違う場所で勉強したり、給食を食べたりするようになりました。すると、小学生の時は友達とすごく仲がよかったのに、白い目で見られるようになったのです。
「自分は何も変わっていないのに、これは変だな」と感じました。普通ってなんだろう。人と人との違いってなんなんだろうと、シビアに考えていました。そのことが絵のテーマになっているところはあると思います。
―高校卒業後、そらまめ食堂で働きながらアーティストになる道を選ばれましたが、進路はどうやって決めましたか?
学校の先生には一般就労を勧められていました。でも、絵でやっていきたい気持ちが強くて。小学生の時は真岡市に住んでいたので、そらまめ食堂にはお客さんとしてよく来ていましたし、アートに理解があることも知っていました。なので、あえて一般就労はせず、そらまめ食堂で働きながら絵の活動をしていくことにしました。
―そらまめ食堂のお仕事では、まちの中でも活動されていらっしゃいますよね。どのような活動をしていますか。
入ってすぐの頃、バリアフリーマップを作りました。赤ちゃんからお年寄りまで、まち歩きに使えるマップです。ただ調べるだけではなく、実際に車椅子に乗ってみて、どれくらい歩きにくいのか、狭い道は通れるのかなど体験しながら作りました。車椅子から見た光景は今も覚えていて、とても印象深いです。その体験を踏まえて表紙の絵を描いたので、思い入れの強いマップになりました。
障害への周囲の反応に対して「これはおかしいんじゃない?」と思った気持ちを解消できる取り組みで、自分が携わることができて嬉しかったです。また、実際に社会とつながる活動をするのは初めてだったので、パンフレットが駅などに置かれてると「力になれたのかな」という感覚があって、やりがいがありました。
他には、真岡鐵道の久下田駅に、利用者さんたちとウインドウアートを描いたこともありました。駅に描くというのはなかなかできない経験でしたし、「見たよ」「良い感じになったね」などと声を届けてもらって嬉しかったです。
障害への思いを、感覚的に伝えていく
―最後に、今後の展望を教えてください。
個人では、県外を含めていろいろなところで個展をやっていきたいと考えています。東京でも開催したので、少しずつ範囲を広げていけるといいですね。いろいろな人と出会い、つながれたら嬉しいです。
作品では、2年くらい描いている大きな絵があるので、それを完成させたいです。最近は粘土もやっているので、立体作品にも取り組みたいと思っています。自分が楽しいこと、ワクワクすることをやっているので、何を作るかはその時の自分じゃないとなんとも言えません。でも、障害に対する思い、感覚を、見てくれた人に味わってもらえるよう気にして作っています。それはこれからも続けていきたいですね。
これまで5回個展を開いていますが、まだ真岡では開催できていません。真岡でやってほしいという声もありますし、自分の知り合いも真岡が多いので、いつか実現していきたいです。