まちつくインタビューvol.10 柴美幸さん
遊び場は、無いなら自分でつくればいい。楽しむことから人とつながり広がる世界。
フリーランスのカメラマンとして栃木県内外で活動する柴美幸さん。2017年に市貝町地域おこし協力隊に着任し、2021年からは地元の真岡まちづくりプロジェクトメンバーとしても活動しています。「栃木に戻る気はなかった」と話す柴さんがUターンした理由、そしてまちづくりに関わる想いとは?
柴 美幸(しば みゆき)
栃木県真岡市(旧二宮町)出身。真岡女子高校卒業後、カメラマンを志し東京ビジュアルアーツ専門学校へ。新宿の大手百貨店でカメラマンとして勤務したのち、2017年から栃木県市貝町地域おこし協力隊に着任。退任後はSTUDIO CORDの屋号で、フリーランスのカメラマンとして活動。道の駅サシバのさと「いちかい」で移動販売を行うほか、農業ユニットYURURiを結成し農産品の加工販売・桃農家としても活動。真岡まちづくりプロジェクトメンバー。
カメラマンとして、地域の一員として
―まず、柴さんのご活動について教えてください。
柴:フリーのカメラマンをしています。STUDIO CORDの屋号で活動していて、写真、デザインのほか写真講座の講師などを務めています。
お客さんは、住宅関係の会社、雑誌の出版社、陶器屋さんや家族写真を撮りたい方などさまざま。撮れないものがないようにしようといろいろな仕事をしてきたので、ほぼすべてのジャンルの経験があります。中でも、モノや料理の写真を撮るのが得意ですね。
そのほかにも、地域でいろいろな活動をしています。「サシバの里くらしずむ」という農業体験イベントの企画をしているほか、最近は道の駅サシバの里いちかいで週数日、移動販売をしています。私は数年前まで市貝町の地域おこし協力隊をしていて、そのときお世話になった方から紹介を受けて始めました。市貝町内を回ると毎週同じものを頼む方もいて、地域の方の生活の役に立っていること、おじいちゃんおばあちゃんが喜んでくれていることを感じます。
また、他町の協力隊の人と農業ユニット「YURURi」を組んで、桃農家としても活動しています。最初は、相方の畑を手伝ったり、私の実家のイチゴの廃棄品からジャムを作ったりしていたんです。加工品づくりはやってみたら楽しくて。2人の好物である桃のジャムも作りたいねと話しました。探してみると、益子町に無農薬の桃農家をしているおじいちゃんがいて。お話しに行って、翌年から仕入れを始めようとしていたのですが、おじいちゃんが亡くなってしまって。畑の地主のご夫婦は勤めに出ていて続けるのは無理だと言っていて、桃の果樹園は管理者がいない状態になってしまったのです。そしたら相方が「やるか」と。農業は未経験でしたが、考えた末、私もやろうと決めました。やっぱり無農薬でつくるのは難しく、昨年は桃が病気になってしまい収量が上がりませんでした。今年は2年目、試行錯誤しながら続けています。
楽しみがなければ自分でつくる
―様々なご活動をされていますね!柴さんはもともと東京でカメラマンをされていて、市貝町の地域おこし協力隊に応募されたとお聞きしました。どうして市貝町へ?
もともと真岡市出身で、地元に戻ろうと考えて仕事を探していたところ、隣町の市貝町の協力隊の募集を見つけて応募しました。
―地元に戻ろうと思ったきっかけはありますか?
正直、戻ってくる気は全然なかったんですよ。
私は小学生のころ、学校写真を撮りに来る写真館の人が好きで、カメラに興味を持ちました。「それは仕事なんですか?」と聞いたら「そうだよ、カメラマンだよ」と教えてもらって。私もこんなカメラマンになりたいと東京の専門学校へ通い、栃木の学校写真の会社に就職しました。ただ、実際にやってみると、学校に行ってもほぼ門前払い。思い描いていた理想の仕事と現実との間に大きなギャップがあり、かなりショックを受けました。
ずっとやりたかった仕事だし、子どもも好きだけど、学校写真はできない。そう感じて、別な分野で写真を学ぶためにもう一度東京に行きました。私も若かったので、嫌な思い出をずっと心にとどめてしまっていて。地元にはもう戻らないだろうと思っていました。その後、新宿の大手百貨店の商品を撮影する職場にアシスタントから入り、カメラマンとして働くようになったんです
戻ろうと思ったきっかけは東日本大震災でした。私は仕事をしていて、新宿駅前の高層ビルで被災。ビルから出られず窓から新宿駅を眺めていると、人が駅からバーッと出てきたんですよ。アリみたいに小さい人の波が、何十分もずっと途切れなくて。それを見たとき、急にげんなりしたんです。ずっと東京に住むんだろうなと思ってきたけれど、この中の一人なんだと思ったら一気につまらなくなったというか。これでいいのか考えるようになりました。
仕事は順調で、個人でも依頼がくるようになり軌道に乗っていました。でも働きすぎて体を壊していて、それでもスケジュールが埋まっているから休めないような状態でした。東京で働いていても、次から次へと新しいカメラマンはでてくるし、いくらでも替えはいる。ここにいる意味はないし、カメラマンの仕事じゃなくても良いかもしれない、と思いました。
ちょうどそのころ、地元で同窓会があり、友人や先輩と連絡をとるようになって。話すうちに、地元に帰ってみようかと思うようになったんです。今やっているような広告の仕事はないと言われましたが、隣町の市貝町で地域おこし協力隊の募集があるのを知り、それならいいかもしれないと。だから戻ってきたときは、自然に触れて少し休憩できる場所に行きたいなという感じで、地元に興味があったわけでも、まちづくりがしたかったわけでもなかったんですよね。
―地元にもまちづくりにも、あまり関心はなかったと…意外です。今はかなりアクティブに活動されていますよね。着任されてからどのような変化が?
着任したら、夜に何もやることがなくてつらかったんです(笑)。なにか遊びをしないと、いなくなる気しかしないなと思って。やることがなさすぎて、夜な夜な企画書を書くようになりました。
まず、カメラに興味がある若手職員を対象に写真の講座を開きました。つながりをつくるきっかけになるかもしれないと思ったからです。参加者の中から、一緒に飲みに行けそうな人を探しました。結果、写真が好きな人とつながり、飲みに行ける人も増えて、少し楽しくなりました。
すると今度は、町の小学生って何か楽しいことがあるのかな?と気になり始めて。娯楽がないのでないかと思ったのです。昔は町で映画を上映していたという話を聞き、野外シアターを企画しました。7月に企画書を出し、2週間後の8月には開催していましたね。
1つ企画をやると、まちの人たちから次もやらないの?という期待感が出ます。実際やってみて、私自身、にぎわいができるのは楽しいし、まちの人たちが楽しいのが一番だなと感じました。これまでは暗いスタジオに一人こもって撮影していたし、そっちの方が好きだと思っていたんです。でも、人と関わったら、その人に嫌なことが起きてほしくないと思うし、良くなったらいいなと思いますよね。関わり合いが増える中で、いろいろなことをやるようになりました。1年を終えるころ、夜な夜な書いていた企画書は、大きなバインダーにいっぱいになっていました。
思い描いたものがかたちに
―そんなにたくさんの企画書を…。人と関わる中でまちづくりに取り組まれるようになったのですね。
そうですね。任期を終えた今は、市貝町だけにとどまらず、近隣自治体でも活動しています。口コミから依頼が広がり、撮影したり、写真講座を開いたりしていますし、まちづくりでもいろいろなプロジェクトに関わっています。
特に、全体像がみえるものを選ぶようにしていますね。自治体によっては、何がやりたいのか見えないプロジェクトもあります。提言をしても掬い上げられなかったり、数年間続けること自体が目的になってしまっていたり。そうではなく、なんのためにやっているのか、補助金頼みではない、自分たちで回していけるシステムをつくる構想があるのか、そのあたりを考えているプロジェクトに参加したいと感じています。
―2021年度は、真岡市の真岡まちづくりプロジェクト(以下、まちつく)にも参加されました。どう感じましたか?
メンバーに建設系の人たちがいる団体があまりなかったので、新鮮でしたね。楽しいことを考えたとしても、なかなか自分でつくるところまでいかないじゃないですか。でも、まちつくでは実際形にするところまでやります。遊具やベンチや本棚など、ものが出来上がりますからね。スケールのでかさにびっくりしました(笑)。予算をかけずに大きなものを動かせるプロジェクトはあまりないので、すごいと思います。去年はスケジュールが忙しく、あまり関われなかったので、もっと中に入って活動したいですね。
あとは、チームのバランスが良いです。何回もミーティングを重ねていますが、もめごとが起きないのがすごいなと。コンサルタントが入るわけでもなく、メンバーみんな仲が良い中で物事を進められるのが良いなと思います。
遊び場のある日常をつくる
―ありがとうございます。最後に、今後の展望を聞かせてください。
カメラの仕事を増やしたいと考えています。特に、広告関係の仕事ですね。いまは、栃木の自治体の案件も、東京の大手広告代理店に発注している現状があります。そうではなく、その地域をよく知っている地元のクリエイターでチームを組んでやれるようにしたいと思っています。その地域で良いものをつくれるようにすることが一つの目標ですね。
まちづくりに関しては、これからも楽しいことが次々生まれると思います。大学生や高校生を応援したい気持ちが強いですね。彼、彼女らから出てくるアイデアは、自分たちからは生まれないものですから。やりたいことがうまくできずに困っていたら、みんなが手伝う。それが地域で人を育てるということだと思います。
あとは、若者が楽しめる場所をつくりたいですね。真岡市に住んでいる私の姪っ子は、遊びに行くなら宇都宮だと話していました。私が子どものころは、真岡にもエンターテイメントがたくさんあったんです。アイドルのプロマイドを売っているお店やおしゃれな文具店、大人になったら行きたいと思えるような喫茶店が身近にありました。いまはそんな場所がなくなってしまったかもしれないけれど、ないならつくればいいんです。自分たちの手でまちを楽しくして、遊び場がある日常をつくっていきたいです。
取材、文章、写真 : 粟村千愛(真岡市地域おこし協力隊)